オリンピックが開幕しました。
スポーツを通じて表現する力を持った「ほんもの」の人たちが世界中から集まる「オリンピック」というお祭に、しばし酔いしれることになりそうです。
一つの道を極めるということは、努力と同時に「問題解決能力」があってこそではないかと、彼らを見ていて思います。
現状の問題点と向き合い、克服するために何が必要かを考え、目標に向かって努力することに喜びを見いだせる人。
素晴らしい人たちに感動をもらうばかりでなく、その生き方や姿勢に学ばなければなあと思います。
7月の「木や通信」、表紙ページ、A保育園のF園長の寄稿文にはサブタイトルとして〜世界を変える力の基礎としての保育〜とあります。
文中にあった「子どもと一緒に同じものを見、同じように考え、ものごとの多様な側面を知り、語り合う積み重ねが、社会や自分自身の問題を解決する力を育てているのです。」という言葉に、大人の関わり方ひとつで、子どもの考えようとする力をいかようにもコントロールできてしまう怖ろしさを改めて突きつけらた思いがします。
「嫌々やらされて出来合いの問題が解けても、複雑化した将来の問題解決を保障するものではない。困難な問題に直面したときに、それらの問題を解決することを心から楽しめる人として育つ事の方が重要」とも。
F園長の文章を読みながら、保育という仕事のスケールの大きさを改めて感じました。
そして同時に、人生において「問題解決能力」を習得するチャンスは誰にも等しくあり、そのチャンスを自らつかめるかどうかが豊かな人生への「鍵」になるのだということを、既に大人になってしまった人たちにもエールを込めて伝えたいと思いました。
もちろん私も豊かな老後に向けて、いついつまでもものごとを楽しく考え続けられる人でありたいものです。
開幕したばかりのオリンピックと、木や通信に感謝を込めて。