昨日、じどぶんでの「おもちゃの広場」(月一、おもちゃコンサルタントとしてのボランティア)で、参加者さまからのナカナカ深いご質問。
お家にあるモノで楽しく遊べていれば、おもちゃは必要ない?
もし必要だとしたら、揃えるべき(欠かせない)おもちゃとはどんなものか?
まず、良いおもちゃは子どもの好奇心を満たす工夫がしてあり、「こうすればこうなる」という結果を学ぶことが出来る便利な物だと言うこと、そして、子ども自身が満足する瞬間を、親も目撃できて、我が子の成長を教えてくれる道具でもあることなどをお伝えしました。
それは、家の中にあるおもちゃ以外の、生活用品などでもちろん代用可能ですから、それで良いという考え方もあるでしょう。
昨日は、こうした話と、なぜ木製玩具をオススメするのかという理由などをお伝えしたのですが、もう一つ、大事なことを伝え忘れたなあ、と気づきました。
それは、「私のおもちゃ」という子どもの所有権についての話です。
良いおもちゃに触れる機会は、おもちゃの広場をはじめ、支援センターなどで確保され、ご家庭ではもっぱら生活用品で代用する、という暮らしも素敵ですが、ここに、何か一つ「私のおもちゃ」があると、お子さん自身の幸せにつながるよ、と伝える必要があったなあ。
そしてまた、おもちゃであるからこそ育まれるもの、ファンタージーが、おもちゃにはあるって言うことも。
例えば、昔々には「絵本」などこの世に存在しなかった。
昔話なら、ずっと昔からあっただろうけど、それが「絵本」という形で今のように親しまれることになったのは、昔話や物語の世界を、誰にでも分かりやすく伝わるようにエッセンスを絵と文章とに凝縮させ、独自の世界観を生み出したからだと思う。
その絵本を、ひとつも読まなくても大人にはなれるし、一冊も持っていなくても、成長していける。
けれど、大好きな人に読んでもらうとか、自分のお気に入りをいくつか自分用に持っている、としたら、絵本の世界を楽しんだことがない人より、ちょっぴり豊かな時間を知っていて、私の絵本を持っているってことが、小さな自信に繋がることもあるでしょう。
おもちゃも同じ。
たったひとつでも、いつも傍らにあって、「私のおもちゃ」と言えるものがあるって、大事なことじゃないかな。
この「私のおもちゃ」は、大きくなった子どもの心も支えると私は考えています。
赤ちゃんの時使っていたおもちゃは、赤ちゃんの時の自分が存在した証のようでもありますね。
そしてまた、おもちゃは、子どもが使うためにつくられているので、生活用品とは異なる趣が備わっています。
おままごと、などは良い例。
家事で使うボールやカップで遊ぶことも楽しいけれど、子ども専用のお鍋やお料理グッズでごっこ遊びをする方が、子どもの手で扱いやすく、子どもたちにファンタジーの心を育むのです。
実際に食べられもしない食材を、本物以上に美味しそうに調理し「どうぞ」「おいしい〜」と味わって遊ぶ、そうした子どもの心を応援するのは、やはりおもちゃの力だと思います。
幼いときの遊びが、後々実際の体験に繋がっていきますので、まずは、空想遊び、ごっこ遊びを、おもちゃを使って存分に楽しんで欲しいと思います。
おもちゃではないけれど、私自身、ずっと捨てられない物がいくつかありました。
例えば、幼稚園のお道具箱。
自分でも理由はよく分からないけど、結婚するときも、お道具箱を捨てることは出来なかった。
その中に、子どもの頃の宝物(ガラクタ)を入れていたからかも知れませんが、私にとって大切な物だったのでしょう。
幼いころの自分を大事にしたかったのかしら?
自分の(所有権がはっきりしている)絵本、自分のおもちゃを、数は少なくても良いのです、与えてあげられると良いなと思います。