幼い頃、冬の朝に着替えるのが嫌でぐずぐずしていると、こたつで温めた肌着をばあちゃんがそっと差し出してくれた。冷気の中そでを通したあの肌着のあたたかさがよみがえる。
幼い頃の、心がホッと温かくなるような懐かしい出来事を思い出してみると、そこあるのは「言葉」ではなく情景であり、ぬくもりであり、音やにおいといった身体と心の感覚だけだと気づく。
他の人がどうなのかは分からないが、私の場合はそうなのだ。
交わした会話、かけられた言葉は曖昧でも、そのときの他者(多くの場合家族だが)の表情と自分の感情とが言葉には代えられない「喜びや安心感」といった心をあたためる素材として残っている。
言葉は私たちにとってなくてはならないコミュニケーションツールであるが、言葉以上に、いや言葉以前に自在に語り感じる”からだ”を人間は備えているんだね。
幼い私を度々銭湯に連れて行ってくれたのは叔父だった。大きな湯船で温まった後、大きな手のひらで顔から順に丁寧に洗ってもらったこと、几帳面な性格の叔父らしく、洗われる身体がその順序をおぼえている、ちょっとタバコ臭いにおいと大きな手の感触。
さまざまな感覚と共に残された記憶に、私という人間が家族や周りの大人たちに手をかけ気をかけられて育った証をみるようだ。
ありがたいなあ。