今月も”あぶぶ””とことこ”計7回がどうにか終わりました〜
どの会も楽しかった♪
・・・が、つい「どうにか」とつぶやいてしまうのは、自分自身「上手くいかなかった」と落ち込むこともあるからです。
じっとしていたくない人ばかりが揃っている場合など、子どもを追いかけながらわらべうたをやっているような[#IMAGE|S106#] 時もあり、絵本を開いているけれど、だ〜れも見ていないという悲惨な状況に陥ったりもするのです。
条件が整えば、そうした人たちを私に注目させ続けることが出来ます。
例えば、参加者がほぼ同じ時間に揃い、待つことなく始められるとか、
お子さん自身が眠い、空腹、体調不良など機嫌を悪くする要因がないこと、
親も子も落ち着いた気持ちで何かに期待する心持ちであるとか・・・。
また、多少月齢の差があるお子さんが加わることで雰囲気は変わります。
高速ハイハイ〜ヨチヨチ歩きできる人ばかりが集まると、それぞれの好奇心は全解放される感じで、あっという間に制御不能、小さな人たちのエネルギーに圧倒されてしまいます。
ところが、動ける人、自由には動けない人、ちょっと落ち着いてきた人などが同じ空間にいるだけで不思議と穏やかな雰囲気になるものです。
大人からすると、穏やかで段取り通りはかどると「うまくいった」と思うのですが、子どもの立場で考えてみるとどうなんでしょう?
大人の思い通りにできなかった時の方が彼らにとっては「思い通り、うまくいった」と感じていたりするのかも?
「遠野のわらべうたは1対1」と教えてもらったことの意味はこんなところにあるのかな?
(一斉に「さあ、わらべうたやりますよ!」というのとは一線を画すところ)
それは近年盛んに耳にするようになった非認知能力を育むための子ども観、「子どもとは、大人が教え導かねばならぬ存在ではなく、自ら学び取ることの出来る存在」に通ずる考え方のように思います。
こんな風に考え始めると、子どもを集めて何かしようとすること自体どうなのかという思いがこみ上げても来るのです。
とは言え、何もかも子どもの思い通りにさせることは出来ないし、無理のない範囲で大人の都合に付き合ってもらう経験を重ねる中で子ども自身が学んでいくことも必要だと私は考えています。
全くじっとしたくない人たちでさえ、ここあんでのわらべうた遊びに始まりと終わりがあることはちゃんと理解しています。
♪おてぶし を歌えば、「今から」
♪さよならあんころもち を歌えば「お終い」
始めと終わりをちゃんと心得ていて、定位置(お母さんの膝に)につくことができるのですから。
私は今、「子どもたちを何とかじっとさせよう」という気持ちを自分の中に持たない人になるための修行中。
上手くいったとかイマイチだった、とか。
不毛な評価をしない自分に、お子さんたちとの時間を心底楽しめる人に、「サウイフモノニワタシハナリタイ」(笑)