ここあん便り

うれしいとき、かなしいとき

笑顔は美しい。

昨日、お母さんと顔をくっつけるわらべうた♪ぺっちゃんぺっちゃん♪を知恵さんに教えてもらい、子どもたちがみせた笑顔の素晴らしさと言ったら・・・もう、その表情を見ているだけで胸がいっぱいになっちゃった。
「人を愛する」っていうことを、赤ちゃんは生まれながらにして知っているのだろうか?
お母さんを求めて、お母さん、お母さん、って求め続けるその声に応えてもらえるからこそ「美しい笑顔」が見せられるのだよね。
あんな笑顔で見つめてもらえるんだもの、お母さんは幸せだ〜。
3歳と1歳がお母さんのお膝の争奪戦を繰り広げる姿もあった。
こちらは「悲しい〜」と「うれしい〜」が戦いの末に繰り返される。
泣いたり、笑ったり、忙しいけど、これもまた幸せな母子の証拠。
夜、cafeマルマスの木曜ステージ。
プロの演技に、物語(注文の多い料理店)の世界へとぐいぐい引き込まれる。
一瞬で変わる表情、私たちも森の中に迷い込んだみたいだった。
後半にはサークルしじみのお二人による愉快なステージ。
もう、笑いすぎておなかが痛くなりそうなほど愉快。
前の席の女の子(中学生?高校生?)がツボにはまって笑いが止まらなくなっていた。
お母さんがそっと「こら、いいかげんに・・・」と耳打ちするが、もうこうなったら本人の意思ではどうにもならない。
女の子を見ているこちらもつられて笑う。
「箸が転んでもおかしい年頃」
私にもそんな時があったなあ〜
きっと、思春期にはそれが必要なのだろう。
うつうつと考え込むことと、笑い転げること、その両方のバランスを無意識に図っているのかもしれない。
うれしいとき、かなしいとき、
それが素直に表せるのはとてもいいことだと思う。
表情豊かな人は若々しく(みずみずしく)見える。
反対に、表情が乏しくなると老けて見える。
このところ、私より若い人が突然に亡くなることが続いた。
「悲しい」より先に「腹立たしい」気持ちに見舞われるのだ。
「なんで?」と。
そして徐々に、日を追うごとに「喪失感」が「悲しみ」となってじわじわと忍び寄る。
年を重ねた人が、喜怒哀楽をはっきりと表さないように見えるのは、こういうことだったのか。
自身が「鈍感」になったと気づいて、なおいっそう悲しいこの頃だ。
赤ちゃんのように、とは言わないが、いつまでもみずみずしい表情を失わない人になりたいなあ。