ホンモノ、ホンモノ・・・と一日考えてみた。
スマホやipadなどなど、あれはやはり、幼い子どもにとっては「つくりもの」でしかないと思う。
そしてまた、同じ「つくりもの」であっても、おもちゃにこそ(おもちゃにも色々あるのだが)幼い子どもにとって必要な要素が備わっているのだと言いたい。
ここあんで赤ちゃんを見ていて思う。
誰に教えられることもなく赤ちゃんは学ぶ術を知っているのだと。
赤ちゃんは、己の手が自在に動くようになると、目の前のものをつかもうとし、やがてつかみ、口へ運ぶ。
口から離し、目で確かめて、また口へ、なめて、くわえて、見て、なめて、くわえて、見て・・・を飽きることなく繰り返す。
口で学ぶことは、個人差はあるが離乳食が終わる頃には自然としなくなり、指先を器用に動かせるようになると終わりを告げる。
これは、暮らしそのものであり、遊びであり、学びであり、成長の道筋に他ならない。
その後も、手を伸ばし遊び続け、学び続けるのだが、一体どれだけのモノに触れ、観察し、試行錯誤を試みるのであろうか。
さて、いよいよスマホについて考えてみる。
あれは、大人にとって最高に便利な道具である。
電話、パソコン、カメラ、ビデオデッキ、音楽プレーヤー、ゲーム・・・何もかもがあの小さな手のひらサイズに入っているのだから。
10年前なら、それらの道具は個別に存在し(もちろん今も個別にも存在しているのだが)容易に子どもに触れさせはしなかったはずの道具ばかりだ。
しかし、スマホであれば触らせてしまうという現実。
小さくて軽いから?
危険性がないから?
子どもの好奇心を満たすから?
ものごとには順序がある。
子どもが、赤ん坊の頃から地道に続けている小さな体験の積み重ねを一切無視して、大人にとって最新最高のモノを与えることは罪ではなかろうか。
例えば、何の努力も苦労もなしに、富士山の山頂に運ばれて「日本一の山に登った」と喜べるだろうか?
子どもには、時に「ただのおもちゃ」の方がホンモノ以上に重要で意味がある。
私はそう思う。
スマホはおもちゃではないし、おもちゃにしてはいけないもの。
断固としてそう思う。