身体(からだ)。
整えるには、感じることが大切なのだと思う。
自らの身体の声のきこえ方には個人差があるだろうね。
赤ちゃんはこれがとても優れているように思える。
生まれて間もなくから数ヶ月の間は、快か不快、そのどちらかしかないと見える。
身体が穏やかであればすやすやと眠り、どこか不快であればぐずる。
赤ん坊に比べると私などは全く鈍感になっていて、身体の声を感じにくくなっている。
それは仕方のないことかも知れない。
しかし、もしかすると無意識の中に感じる力を備え続けてるかも知れないと密かに期待はしているのだ。
身体の声を聴くこと、それを可能にするかどうかは、やはり幼い頃の育ち方ではなかろうか。
快と不快をひたすら繰り返すことだと思う。
例えば排泄。
そしてそれを受け止めるおむつのこと。
あくまでも個人的意見だが、オムツが外れる年令が遅くなっていることは子どもの感受性に何かしらの問題が発生しているのでは、と私は考えている。
子どもの身体面から言えば、およそ1歳半頃には膀胱に一定量の尿を蓄えることができるようになると言われている。
その膀胱感覚を見計らってオムツ外しが実行された時代は、すでに過去のものとなった。
ここあんでは「おむつなし育児の会」を毎月開催している。
子育て中の皆さんが子どもの排泄について語り合うこの会を通じ、私は改めて子どもの身体のことを考えるようになった。
そしてそれは「人の身体、生理」に繋がることなのだと知った。
自分の身体に耳を澄ましてみると、子どもの頃の身体感覚が蘇ることがある。
そうした記憶の奥底には、私自身が気づいていない赤ちゃん時代の様々な経験(身体感覚)が脈々と息づいていることだろう。
親や家族、近所の人たち、様々な人の世話を受けて、今の私の身体感覚はつくられた。
鈍感になったとは言え、今どきの子どもたちより優れているかも知れないね。