ここあん便り

言葉を育てる

メディア講座のネタ探しのつもりで読み始めた一冊。
石井光太著 文芸春秋刊「ルポ 誰が国語力を殺すのか」
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163915753

驚愕、の一言に尽きる。
え!そこまで?もはや、危機的状況ではないか(子どもたちの現状が)、胸が悪くなって読み進めるのを幾度も躊躇した。
気を取り直して、読み進める。これが全てではないと呪文のように唱えながら。
そう、日頃接している子どもたちの笑顔をより所にして。

自分の感情を言葉で他者に伝えることのできない子どもたちの苦悩は、私には想像もつかない。
今も、すぐ近くに、自分の感情を押し殺して日々を過ごす子どもが居るのだろうか。

問題を抱えた子どもばかりではない、序章の「ごんぎつね」の読めない小学生たちで語られる小学4年生の授業についてのエピソード。
(兵十の母親が亡くなり、葬儀の準備シーン、正装した村の女たちがかまどで火を焚き、大鍋で「何か」を煮ている・・・このシーンの「何か」とは?という教師の問いに、小4の子どもたちが「死んだお母さんを消毒している」「鍋で煮て骨にしている」等々答えたという)
はじめは、にわかに信じがたかったが、よくよく考えると私にも似たような経験があった。

幼稚園、保育園でのアートスタート公演に同行し、時折感じる違和感がそれ。
例えば、ある人形劇を見ていた時のこと、おばあさん(人形の)がケーキを作ろうとして、歌を歌いながら材料を混ぜ、「さあ、焼きましょう」と、後ろ向きになってにかまどにケーキを入れている場面、人形が後ろを向いた途端「見えん、見えん」と子どもたち。
人形は後ろ向きで、表情は見えないけれど、後ろ姿でのおばあさんの演技は続いている。

このシーン、おばあさんが今何をしているかを子どもたちの創造力に頼る部分だ。
こうした声(見えない)が聞かれるのは、思ったことを何でも声に出してしまう年頃だから?
もしそうだとしたら、「ケーキを焼いてるの?」とか、「何してるのかな?」とか言いそうなものだが、違うかな?そもそもケーキを作る工程を知らない、と言うことも考えられる。

だとしても、子どもの「見えん!」の声は、ちょっと違うんだよなあ〜
障害物があって見たいものが見えない、といった雰囲気の「見えん!」に思えた。
人形劇など生の舞台を定期的に楽しんでいる園ではこうした声が発せられることはない。
台詞や人形の大きな動きのない時間などでも、見慣れているお子さんたちは、その「間」を黙って待つことができる。
一方、絵本や生の舞台など、自ら主体的に見る(楽しむ)経験が乏しく、テレビアニメなど動画をたっぷり見て育つお子さんの場合、音や会話が途切れると「おわり?おわった?」と言い出したり、「間」とか「気配」を感じ取って続きを待つことができない。

これは、私の感覚的なもので、ちゃんと調べたことではないけれど、その傾向は年々強くなっているように思う。

子どもの発する言葉の背景というか、経験に裏付けられた本当の言葉を子どもたちがちゃんと持っているかどうか、そこに私たちは目を向けなければならない。
本当の言葉でやり取りできる人になるには、心を動かす体験とその体験を他者と分かち合う経験が必要なのでは無いか。
冒頭で紹介した「誰が国語力を殺すのか」の国語力以前の、暮らしの中の会話を豊かにすることが、今私たちにできることであり、豊かな感情表現、会話のできる子どもが増えれば、その子たちが周りの子どもたちにもよい影響を及ぼすかも知れない。

そんなことを考えながら就学前のメディア講座へ出かけた。