ここあん便り

老化についてのぼやき

私も既に「おばあちゃん」世代な上に、92歳のお年寄り様と暮らしていると「老化」という文字がたえず暮らしにつきまとう。
そしてまた、いつまでも若いと錯覚していた母などがここ数年で一気に完璧な老人になった様子などみるにつけ、「介護」が現実味を帯びて迫り来る。

小さい人たちが成長していくさまは大変頼もしく、こちらも元気を貰うけれど、
恐らく、私の勝手な好みの問題であろうと前置きした上で言うのだが、
いや、やがては己もこうなるのであろうことを今はまだ拒否したい気持ちが邪魔をするのかも知れぬが、
老いていく様を見るのは、どうにも気が滅入る。

何とかあらたな発見などして、面白さを感じてみたいと思うのだが、なかなかそうはいかぬ。

そう言えば、最近「あれ?」と思うばあさんの行動がある。
行動とか、身のこなしのことである。
頭もしっかりしており、自分のことは自分で出来る人だ。
ただし、ひとつ、ひとつ、大変時間を要す。
「ごはんよ〜」と呼ぶと、「ふあ〜い」と返事があってから、待てど暮らせどお出ましにならない。
コタツからでるのも、トイレを済ませるのも、用心しながら歩くのも、随分と時間がかかる。
早食いの夫などは、ばあちゃんが着席する前に終了ってこともしばしば。
まあ、それはよい。
近頃は、準備が整うより早く声を掛けるようにしてみたり、「○○時には食べるよ」と告げてみたり、試行錯誤の日々。
時間を告げても、あまり効果はない。
どうやら時間の概念が、変わって来ているのだな、と思う。
年を取ると気が競れて・・・というのは、まだ若い証拠かも。
時間とは関係なく生きているように見受けられるなあ。

また、手の力が徐々に弱くなっているのだろう、片手でものを持つことが難しくなっている。
にもかかわらず、片手で持とうとしていつも危なっかしい。
足が弱っているので、両手でものを持つことを無意識に避けているのかも知れないが。
ものを手で取る時もおかしな格好。
例えば、お皿を引き寄せたいとき、皿の片側を手のひらでそっと持つ、ということをしなくなった。
皿の縁に指をかけて引っかけて手前に寄せる。
返すときもしかり。
指先だけで押す。
これは実際、見ていて不快。
なのでこちらで近くに寄せてあげる訳だが、っていうか「もとからお皿に取り分けてあげたら」と思われるだろうが、小食故、結果的にどれもこれも残され続けるのもまたストレス溜まる。

さて、この手先の使い方は、チンパンジーの独特な指遣いを連想させる。
まさにあの手の動きになっているではないか。
なるほどなあ〜。
老いてゆく人の姿に、人の進化の過程を垣間見たような気がするこの頃。