ここあん便り

時を捧げる

まもなく94歳となる大婆さま、腰痛が本格化しつつあるなあ〜

こうなると、一気に病気モードに突入の予感。
ぼやいても仕方ないが、嫁さんはいよいよ囚われの身となる。
これまでも、その度に私の予定を変更し、時間をやりくりし、ストレスを溜め込みつつ世話をするということを繰り返してきたけれど、なんだかなあ〜、もう、つくづく嫌になっちゃった。
こんなこと言っちゃいけない、言ってもどうにもならない、そんなことは百も承知だけれど、一体いつまで私の時間を捧げれば良いのか・・・と思ってしまう。
嫌な予感は的中し、朝ごはんにヨロヨロお出ましになった大婆さま、「アイタタ・・・、イタタ・・・」のみならず、表情がすでに病人モード。
こういう時は目を合わせたら終わり。
泣き言を言われ、今日1日を棒に振ることになる。
ゴミ捨てに忙しい振りをして、「見えませ〜ん、気づいてないで〜す」とバタバタ立ち居振舞う嫁。
その後、恐ろしく静かな時が流れたが、さあ、大婆さまの朝食が終わった様子に急ぎ食器を片付けにテーブルへ行くと、間髪入れず「まりこさんも忙しいだろうけど、病院に連れて行ってもらわないけんわ」と言い放つ。
しまった・・・。
これを言わせてはならぬと、昨夜から夫に事前レクチャーを頼んでおいたのに、効果なし?
「病院に行っても痛み止めをもらうくらいなことだけん、家で安静にしている方がいい」とか
「ばあちゃんの腰痛は、何しても治らんのだから、日にち薬で治っていくのを待つしかない」とか
可愛い息子にしっかり説明されたであろうに、やはり無意味であったか。
年に数回繰り返す攻防戦、今回も完敗。
「はいはい、分かりました。病院に行って治るわけじゃないけど、行かないと気が済まんのだね」
嫌味を言ってしまった後で、後悔す。
言った自分が一番嫌な気持ちになるんだからね。
午前に予定していたことを後回しにして、朝食が終わるとかかりつけの開業医さんへ
9時には着いたと思うけど、予想以上に時間を要し、痛み止めと湿布をもらい帰ったのは12時半。
疲れた〜。
大婆さま、たった一言「やれやれ、ご苦労さん」・・・って、私の半日丸つぶれって分かってない。
さて昼からは銀行、市役所、郵便局、携帯電話屋さんをはしご。
どれも時間を要す。
実は年末にもう一人の大婆さまを亡くし、諸手続きをあれこれと。
書類に、幾度となく母の名前、生年月日、亡くなった日付を書く。
書きながら、ふと思い出すあんなこと、こんなこと。
何しろ突然のことで、母が亡くなったという実感がないまま過ごしている。
誰の手も煩わせることなく、ひとり静かに旅立った母を思い、「アイタタ、イタタ・・・」のばあさんが一層憎らしい。
赤ん坊や高齢者、そして病人など、誰かのお世話をするってことは、己の時間を捧げることだ。
そしてそこには「愛」が必要なのだと思う。
どんなに時を捧げても、惜しくない時間があり、反対に惜しくて堪らない時間もある。
私のように了見の狭い人間は、捧げるのが惜しい時間に振り回されてしまいがちで、それが自分でも悔しいけれど、こればかりはどうにもならない。
南無妙法蓮華経を唱えつつ、せめてもの詫びにと札打ちす。