ここあん便り

悲しみより深く

先月19日、母が突然この世を去りました。

同居している義母より10も若いので、まさかその母の方が先に亡くなるなど想像もしませんでした。
個性の強い人で、彼女独特のプライド意識というのものに周りはずいぶん苦労させられましたが、晩年、ようやく私(娘)たちの言うことに従う(やむなく)ようになり、一気に年老いたように思います。
気弱になってから、元気な頃には決して口に出さなかったことを、折に触れ言うことがありました。
(私のところに来たいというようなニュアンスのことを。)
その度に、いつか、義母を見送ったら・・・と思ったものです。
「共に暮らす」ことは大変なことが多いけれど、高齢者にとってはこの上ない幸せでしょう。
娘二人をさっさと嫁に出し、「私のことは心配しなくて大丈夫」と言い放った威勢の良い母はどこへやら、寂しげで困惑した表情の母をどうすることもできず、「寂しかろうなあ〜」と思いつつも日々の生活、同居の年寄りの世話を優先させざるを得ず、「もうちょっと待っててね」の心境でいたのです。
その母が亡くなったこと。
今なお,現実味がないのは、どうしてでしょう。
「悲しみ」という感情がわき上がってこないのは、薄情な娘だからかしら?
喪失感というより、罪悪感に支配されているような気がします。
今朝も、遅く起きてきた義母が「腰の調子が悪いけん今日はデーサービスを休むって電話しちょいて」と言い放つのを聞きながら、慌ててお昼のお弁当をこしらえ、デーサービスセンターへ電話するなど,その対応に追われていると、そうした細々した日常の手助けを母には何一つしてあげられなかったと,申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
今、母は大好きな秘蔵っ子(私のお姉ちゃん)の家で、孫やひ孫と共に居ます。
生きている間に叶うことのなかった暮らしを喜んでいるでしょうか。
親って、なんだろうと改めて思うのです。
損な役回りだと思い知らされたというのが正直な気持ち。
年の重ね方を、考えずにはいられない。
私の「悲しみ」は、どこへ行ってしまったのでしょうか。
捜し物でもするような,落ち着かない心で日々生きています。