ここあん便り

待っててね!

自分が子育てしているときには気にならなかったことが、今はとても気になったりする。

例えばここあんで、小さなお子さんの見せる態度や発する言葉など。
特にお子さんたちがいつもどれだけ待たされて(親に)いるのかと、その日常を垣間見るような瞬間に出会う度、どうしてあげたら良いのかなと胸を痛める。
決して親を責めるつもりはないのだけれど、往々にしてお子さんたちは待たされているのだろうと察する。
「待っててね!」
「待っとってよ!」
「待って、待って!」
小さな人からその言葉が連発されるのは、ちょっと悲しい。
もしかすると、いつもそう言われて(待たされて)いるのではないか?
或いは、待ってもらえない、置いてけぼりにされる、と不安になるのでは?
(考えすぎかも知れないけど)
子どもの何よりの不安は、親に知らんふりをされることだと私は思う。
子どもはいつでも、どんなときでも親に見ていて欲しい人たちだ。
だから、親の気持ちが自分から離れることを最も恐れる。
例えば、色々なこと(大人が困るような)をして否が応でも自分の方に注目させようとするのはその表れ。
好奇心旺盛で一時もじっとできない一歳児とは違い、親の言うこともよく分かっている筈なのに自分の我を通そうとするような場合は何か不安があるのじゃないか、或いは何かが不足しているのではないかと想像してみると良いかもしれない。
(お子さんの性格、気性による場合もあります。)
待ってもらえることを知っている子どもは待つことができる。
これは親が果たす「約束」の行為の積み重ねによって育まれる。
毎日を安心して暮らせる、自分の願いは裏切られない、という他者への信頼感こそが「待つ」ことを可能にするのだから。
かく言う私もダメダメなところは沢山あって我が子を「見ないふり、聞こえないふり」したことはもちろんある。
それは「心をなくす=忙しい」ときに発生しがちだったかな?
今、お母さんたちはみんな忙しそう。
忙しいと子どもの声に鈍感になる。
5回も6回も「ねえ、見て」「ねえ、お母さん」と言われて、それでも気付かず振り向けない状況にあるとしたら、親子共に辛いなあ。
子どもって本当に手がかかって面倒くさい存在だから、毎日向き合っているとあっぷあっぷ(求められることに溺れそうになる)してしまうそうになる。
「もう、呼ばないで」と叫びたくなる時もあるだろう。
無意識に「見ない・聞こえない」振りをしてしまうのは親自身の自己防衛力なのかも知れないね。
それでも私はこう言いたい。
「お母さん」と呼ばれたら、ひとまず振り向いて「なあに?」と笑顔を返してみようね。
子どもの声に応えることは「いつも見ているよ」「あなたのことを一番大切に思っていますよ」という親からのメッセージを伝える最善の方法だと信じているから。
子どもはいつでも親を求めていて、保育園や子育て支援施設の先生、ここあんの庵主さんがどんなに手や目をかけたとしても満足させてはあげられないの。
「待つ」ことのできる子どもが備えている「自制心」は、子ども自身がいつも見守られている、大切にされているという安心感から生まれる。
人生のはじまりに「安心感」を育んであげること。
それは親にしかできない最高の贈り物かしらね。