メディアとの付き合い方について、NPOの事業として啓発活動を続けています。
いつから?
2002年、NPO法人設立と同時に始めているから20年以上ですが、その前4.5年程、仲間と共に勉強会を続けていたので、四半世紀を超えて関わり続けていることになります。
先日、メディア講演会に息子の同級生が参加していて、お母さんだった頃の私を思い出しました。
私がメディアの問題に本気で取り組もうと思ったきっかけのひとつがふいに思い出されました。
長男が中学生の時です、恐ろしい事件が起こりました。
神戸で、複数の児童が襲われ、一人の児童は殺害された上、死体の一部を校門にさらされ、犯行声明のような文章が新聞社に送りつけられるという連続児童殺傷事件(1997年)です。
しばらくして逮捕された犯人は、14歳の少年でした。
すると世の中の中学生を見る眼差しが、奇異な者を見るような雰囲気となったのです。
息子が「変な目で見られる」と言ったことを覚えています。
逮捕された少年Aは、その後医療少年院で矯正指導(教育)を受け、今はすでに出所し、どこかで社会人として暮らしているはずです。
なぜこの事件がきっかけになったかと言うと、少年犯罪だと知り大変ショックを受けたことに加え、その少年が最寄りの警察署に収監されるニュース映像に、更に大きな衝撃を受けたからです。
今でもはっきりと覚えていますが、テレビニュースが報じたのは、須磨警察署に入る少年が乗っているであろう警察車両と、それを待ち構える多くの報道関係者、そしてそこに集まった多くの少年たちの姿でした。
少年と同じ年頃の少年たちが、報道のカメラに向かって盛んにピースサインをする姿に愕然としました。
夜にもかかわらず集まったこの少年たちは、一体どういうつもりなのか、同年代の少年が起こした犯行をどう思っているのか、何も感じないのか…
私はただ、無力感に押しつぶされるばかりでした。
我々は、子どもたちの育て方を間違っていたのではないか、一体何をしてきたのだろう…と。
少年Aの部屋から、残虐シーンのビデオが多数見つかったということもメディアとの関わりを考える要因のひとつとなり、子どもとメディアの関わりについて本気で向き合う覚悟ができました。
メディア、とりわけ電子映像メディアが子どもに及ぼす影響を学ぶうち、私自身もこれまでメディアの影響を受けながら生きてきたことを知りました。
テレビとともに生きてきたようなテレビ世代の私。
自分の中の価値観が、メディアからの情報に大きく影響を受けていたことに気づき、改めてメディアの真意を読み解き、賢く使いこなす能力「メディアリテラシー」が必要だということを知りました。
その後、ケータイからスマホへと、私たちを取り巻くメディア環境は急激に変化(進化?)しました。
今は、AIの助けを借りる時代に入り、デジタルデバイスは子育てに欠かせないツールとなっています。
ここまで、長々と書いてしまったけれど、タイトルの「てんごく」って一体何?と思うよね。
実は「てんごく」は、絵本のタイトルです。
今年度、メディアの講座で、「てんごく」を読み語りするようにしています。
〜おかあさんは みんな ひとつの てんごくをもっています〜
新美南吉未発表の短い詩に込められたメッセージを、長野ヒデ子さんの絵が優しくじんわりと伝えます。
絵本 てんごく のら書店
私は、子どもたちに”てんごく”を感じさせること、それが親としての最大の役目だと思います。
そしてそれは、今後どれだけテクノロジーが進化しようと、あらゆることを教え、楽しませてくれるデジタル技術が普及しても、生身の人間にしかできないことです。
少年Aの審判に関わった弁護士さんから、「彼(少年)に、愛されて育ったという記憶、経験について尋ねたら、愛されたという実感はない、と言い、しばらく考えて、ひとつ、思い出されるのは、おばあさんにおんぶしてもらったことでしょうか、と答えた」と聞いたことを思い出します。
メディアの講座で、上手な見方、使い方を伝えているけれど、本当は、子どもにとってのてんごくがちゃんとあれば、もうそれだけで大丈夫って思う。
けれど、てんごくをつくるのを、気づかぬうちにメディアに邪魔されているとしたら・・・。
今、それをとても心配しています。
”愛着”の対象が、モニター画面になってしまうことです。
それは、子どもばかりでなく、親の側にもしばしば見受けられる現象です。
だれにでも、温もりを感じられるてんごくがあるといいですね。