ここあん便り

「待つ」ということ

ここあんにいて、私はしばしばお母さんを待つ子どもたちの傍らで過ごすことがある。
ここあんの玄関先であったり、トイレの前であったり、そう、彼らはある意味「待たされる」ことを日々強いられてもいるわけだ。
きっと私もそうだったであろう。息子らを待たせる常習犯だったに違いない。
けれど、今幼い人たちと共に過ごしてみて、「待たせない」という努力を大人たちはすべきだと痛感している。
どうしても待たなきゃならないことはある、泣きながらでも親を待って過ごさなきゃならないことだってある。
だからこそ、である。だからこそ、できうる限り待たずに済む工夫をして欲しいと願う。
特に、ほんのちょっと、大人にすれば数分のことであっても、いや、数分だからこそ大人は気づかずにやり過ごしてしまうけど、例えば数分泣くのを我慢して待ち続けているのと、30分よその人に預けられて待つこと、大人にとっては明らかに違うことだけど、子どもにとっては同じかもしれないって私は思う。
時間の概念をもたない子どもにとって、短くても長くても不安であることは同じ。大人の時間と子どもの時間には大きな違いがあるんだよね。
そんなことを思いながら、斉藤惇夫さんの「現在(いま)子どもたちが求めているもの」という本のなかの文章を思い出していた。

小学1年生の斉藤少年の忘れられない記憶。
ある日学校から帰るといつも「おかえり」といってくれる母の姿がない。
家中探しても居ない。斉藤少年は不安でたまらず、玄関先でべそをかきそうになって待っていた。
そこへ買い物かごを下げて母親が帰ってきた。
少年の顔を見るなり「どうしたの」と笑顔の母は明るい言葉の調子で聞いた。
少年は、どうして自分の不安をよそに母は明るく笑っていられるのだろうと不思議だった。
この記憶は初めて母に対して感じた不思議さだったそうであるが、おそらく2,3分の出来事だったかもしれない「いるはずの母がいない時間」は、少年を恐怖と絶望の淵においやったのに、何故母にはその気持ちが分からないのだろうと、そのとき少年は感じたのだそうだ。
この出来事は、大人にとってはほんの数分の取るに足らない出来事であったとしても、子どもにとっては、50年も経て今なお鮮明に覚えているくらいの重大な出来事だったのだと、斉藤さんは振り返っていた。
子どもの時間と大人の時間がどれだけ違うか、斉藤さんは大人の時間が水平に流れるものだとしたら、子どもの時間はそれに対し垂直にひろがり、上の方は永遠とむすびつき、下の方は自分の心の一番奥と結ばれているというイメージだともおっしゃっています。

子どもは大人とは違う時間を生きている。そのことをこの夏休み、しっかりと考えてみたいですね。