ここあん便り

「共有」から「共感」へ

いつの間にか、気づけば、我々二人、老夫婦となっており、立派な老人目指し、日々、淡々と、暮らしているのであります。

最近、テレビでYouTubeの視聴が出来ると気づいた老夫。
暇があれば大音量でYouTubeを見るので、それに辟易する老妻。
元来、我々は、好みが異なる夫婦ゆえ、互いの好みについて共感しない癖がついている。

ドラゴンボール(漫画、アニメ)が何よりの名作だと言い続ける70歳に、まともに付き合ってなどいられない。
私の、残された時間がもったいない。
そう思う妻の心情に反し、諦め悪く、共感を期待し続ける人が不思議でならない。

若い頃には、遠慮や思いやり、ひとまず共感した振りなど、家庭内を円満におさめる努力をしたのだが、もう、いいんじゃないのかしら?
こちらの気持ちを、はっきりと言葉にして伝えることにした。
全く共感できない動画を同じ空間で見せられることについて、「これは好きじゃない」「こういうの嫌いなの」と。

で、彼は私が同じ空間にいるときはイヤフォンで視聴するようになった。

さて、愚痴はこれくらいにして、老夫の姿から、人は何故「共感」を求めるのかを考えてみた。
動画問題以外にも、彼が共感を求める場面は日々あるもので。

例えば、トイレ。
リビング横のトイレの調子が悪く(かなり前から)本来フルオートなのだが、自動でふたが開かない、流さない、など、センサー異常か基盤がイカれているのだと、私はすでの手動のトイレだと思った対応し続けて久しい。
フルオートの力を発揮する場合もあるためか、老夫は毎朝、毎晩「今日は流れた〜」「今日は流れなかった〜」と私に報告するのである。
無視するわけにも行かぬので「あ、そう」「ふうん、良かったね」といい加減な返事を返す。
連日これが続くので、さすがに面倒くさくなり「あの〜、どうして毎度毎度私に報告するの?」と聞いた。
「私は自動でなく、手動だと思ってこのトイレと付き合っているけど、もしかして、直して欲しいの?」
「何を期待して報告しているわけ?新しくしたいとか?」
すると、彼は「情報を共有しておくことが大事だから」といった。
なるほど。
しかし、何のために?
試しに、情報の共有を意識して対応してみる。
「今朝は、自動でふたが開きました」とか「全く反応しませんでした」と私も報告。
やがて、「今朝は完璧にフルオート」「おお〜、すごいね」となんだか夫婦の会話に変化が。
ついには、「やった〜今日は自動で流れた!ついているのかも」
「いやいや、うんがつかなかったのでは?…」と大笑い。
おやおや?
不思議なことに、いつも面倒くさいと思っていたトイレの話題が、ちょっとイイ感じになったのでは?
情報の「共有」が「共感」へと変化した?

へえ〜 ちょっとビックリ。
とは言え、YouTubeを一緒に観ようなどとは決して思わぬが、気分良く暮らすため、応じられる場面での「共感」を増やす価値はあるのかも知れない。