先日、読み聞かせのボランティアをしていて、「ん?」「はて?」
メディアの出前講座でも、「ん?」「はて?」
この違和感に囚われぬよう、なるべく平静を装って役目をおえた。
その違和感がどこから来るのかというと、お子さんを連れて参加している親さんから漂っているのだけど、言葉にならぬ肌感覚とでも言うのかな。
う〜ん、どう言い表せば良いのだろう。
私の声は、ちゃんと届いていますか?
届いた声は、言葉として意識(脳)の中に伝いたかしら?
そのメッセージを受け取るべきかを考えたり、どういうこと?って不審に思ったり、なるほどと合点したり、思考へとつながっているのだろうか?
絵本やわらべうたを、親子で楽しむためにここへ来たのではないのかな?
メディアの話を聞くために来ているんだよね?
もちろん、そのつもりと感じられる方もいらっしゃるわけだけど、どういうのだろう、確かにそこに存在しているのだが、意識がこちらへ開かれていない印象の方が気になってしまう。
世代間ギャップ?
なんだかよく分からないけど、折角出かけてきたその場所で、少しでも心に響くひとときがあったら良いなあ〜
絵本を読むとき、わらべうたを歌うとき、メディアの話をする時、私は情報を伝える媒体(メディア)だ。
だから、好みだったり、そうでなかったり、受け止め方は色々あって当たり前。
もちろん共感してもらえたら嬉しいけれど、疑いながら、或いは否定的にとらえつつ聴いてくれるのも大歓迎。
問題なのは、受け入れも否定もすることなく、というか、そもそもこちらの存在を、有るけど無いと同じみたいな、ただパクパク口を開けて何か訴えている人が居るといった感じに捉えられている?的な受け止め方の方というのは、案外目立つのだ。
もちろんこれは私の勝手な推測であり、「聞いてませ〜ん」って顔で、実はしっかり受け止めてたってこともあるかも知れないので、間違っていたら「ごめんなさい」。
家の中でスマホをスクロールさせながら、時折目線を向けられるテレビになった気分。
聞くつもりも無いのに流れているラジオ?
結果、思わず効果的な声や言葉で、こちらへ意識を向けさせようと思ってしまう自分に気づき、なんだか悲しい…。
私の抱く違和感を、どうしたものかと一人悶々としつつ、こうした違和感に出くわすことが増えたなと感じるのを、そのまま捨て置けないように思うのだ。